礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.11.23

見えないものに目を留める

2コリント4:1-18

 コリント人への手紙第二は、パウロがコリント教会に宛てて書いた書簡だ。コリントの町は、古代から交通と貿易の要所として繁栄していた。賑やかさと華やかさの裏側で、町は不品行と偶像礼拝がはびこっていた。パウロはそのような町にも足を向け、激しい迫害に遭いながらも、キリストの福音を伝えた(使18)。その実として生まれたのがコリント教会だった。だが、巷に溢れる罪の誘惑は容赦無く教会の中に入り込み、混乱させ、堕落させた。そのような実情を憂えたパウロは手紙を送り、神が伝えんとするメッセージを伝えた。私たちにも、罪の誘惑は容赦無く押し寄せる。自らを混乱と堕落から守るために、私たちもまた神のメッセージを受け取りたい。


 私たちを取り巻く世は、サタンが「この世の神」として君臨し、「信じない者たちの思いを暗くし」、福音の光が輝かないようにしている(4節, エペ2:1,2)。この光によって、失われていた神のかたちが回復する道が開かれてしまうからだ(4節, 創1:27)。サタンの支配下にいる者たちは、罪の覆いをかけられ、滅びに向かっている(3節)。だが、私たちを罪と滅びから救うために、キリストは、神の光としてこの地に来られ、十字架と復活によってサタンに勝利された(6節, ヨハ1:5)。どんな人でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。この福音の光によって、私たちは闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせていただいた(使26:18)。


 こうして救われた者はやがて必ず、内に罪の性質があることに気が付く。福音の光を避け、またしても闇を好んでしまう。神に喜ばれないと知りながら、罪を慕い、世にあるものを優先させる実態だ。自ら再び覆いをかけ、闇の中を歩むようなものだ(1ヨハ2:9-11)。この肉を残したまま闇を歩く先は、滅びでしかない。私たちに必要なことは、自らの汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出て、神の光の前に自らを照らして取り扱っていただくことだ(エペ5:8-14)。私たちがそのようにするなら、神は私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内におられるキリストによって、覆いを取り除かれた者として、光のうちを歩む者となる(3:18)。失われていた神のかたちが完全に回復され、「神のかたちであるキリストの栄光」(4節)を現して生きる(コロ3:9b,10)。


 終わりが近い今、世の闇はますます濃くなっている。自分の時が短いことを知っているサタンは、より一層激しく脅かしてくる(黙12:12b)。しかし、キリストを内にいただいている者は、測り知れないキリストの力によってサタンを見破り(7節)、その手に屈することなく、信仰によって進んでいくことができる(8,9節)。そして終わりの日には、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに神の御前に立たせていただくことができる(14節, 1テサ4:14-17)。


 私たちが目を留めるべきなのは、目には見えなくても確かに内にいますキリストによる、永遠に直結した生き方だ(18節)。


 私たちは何に目を留めているか。世にある虚しいものか。肉にまみれた汚れか。それとも、内におられるキリストか。自らの姿を省みて、砕かれて神の前に出たい。