礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.02.17

信仰による歩み

ヘブル11:1-12

アベルはじめ信仰の勇者たちが持っていたその信仰とは、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる信仰だ(1節)。我らにとって、永遠の天の故郷(14,16節)はまだ現実に手にしていないし、この目で見ていないが、すでに保証されており、確信が与えられている。

それを保証するものは、第一に血による贖いだ。罪なきキリストが十字架で死なれたのは、我らの罪のためだった。我らの罪とは、神への背きの罪だ(詩51:1-3)。罪の悔い改めとキリストの十字架を信じる信仰によって、赦罪と義認が与えられる(詩32:1,2)。この救いなしには、我らに希望はない。第二に聖霊だ。救われたのにまだ神に喜ばれない己の姿を認め、十字架を仰ぎ、キリストと共に十字架で己に死んで、信仰によって復活のキリストを内に住まわせるなら、この聖霊が神の御国の保証、聖霊の証印、天国の手付金となる(エペソ1:14)。

まずこの保証を握りたい。大切なことは、心から渇いているか、他の何ものにも目もくれずに一途に求めるかだ。渇くところから、万事をなし給う主への信仰が与えられる(ローマ4:17,18)。

勇者たちが称賛された信仰を我らもいただきたい。我らを救い、潔め給う神は、求め従う者を確実に、まだ見ない天の故郷に導き給う。

本書の筆者は具体的に人物を挙げる。

1.アベルの献げ物がすぐれていたのは、謙虚に罪を自覚し、血による贖いの必要を知ったうえでの献げ物だったからだ(9:22)。彼はそのいけにえによって、義人であることの証明を得た。赦罪と義認だ。キリストの十字架の血潮を通して、主は我らの罪を赦し、義と認め、受け入れ給う。彼は、全焼のいけにえとして羊を祭壇に乗せた。神の御旨のままに従う魂として自分自身を献げたのだ。そういう献げ物を神は喜んで受け入れ給うた。

2.エノクは神とともに歩んだ(創5:21-24)。神と共なる歩みとは、キリストを内に住まわせて歩む歩みだ。我らもそのように歩みたい。彼は死を見ずして天に移された。信仰によって神と共に歩む者が天に携挙される。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない(6節)。神がもっとも喜ばれるのは信仰だ。

3.ノアは主に信頼し、御言葉に従う正しい人だった(創6:9)。信じて従って箱舟に乗り込んだから、彼は洪水から救われた。我らもキリストの十字架によって、罪と滅びから救われる。神の裁きと滅びは、まだ見ていない事だったが、彼は、確実に到来すると御言葉によって確信した。そのため彼は、信仰義認の継承者となった。信仰義認を自分自身も受け、次の世代にも受け継がせていく者だ。神は、人類との契約のしるしとして虹を設けられた(創9章)。虹に象徴される主の十字架は、いつも我らの前にあり、誰でも見ることができる。十字架の救いは見上げる者全てに与えられる(民21:8)。この恵みを受け継ぐ者にされたい。

4.アブラハムは御言葉に従い、国も親族も献げ、行く先を知らないで出て行った(創12:1-4)。その結果、祝福の基となった。彼は、真実な主への信頼のゆえに御言葉に従って出発し、他国人のようにして天幕に住んだ(9節)。地に属さないという姿勢を貫いた(Ⅰペテロ2:11)。過ぎ去ってしまう世の富や地位や名誉よりも、さらにすぐれた天の故郷(16節)がある。それは、今ここで得られる天の所の歩み、すなわちキリスト内住の恵みだ。これこそ堅い基礎の上に建てられた都だ(10節)。それは、神ご自身がその都を設計し、建設し給うたものだ。キリストが十字架の上に全き贖いを完成し給うた。我らは信仰によって受けることができる。

彼は幕屋に住んだ。我らもまず祭壇を築こう。自らの礼拝の祭壇、献身の祭壇、祈りの祭壇はどうだろうか。

信仰による歩みを神は喜び給う。信仰によって出発をしよう。主を信じて従う歩みを始めよう。