礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.02.03

信仰を見られるイエス

マタイ9:1-13

イエスのもとに来て、虚しく帰った人はいない。ここに登場する人物も、イエスからすばらしい祝福をいただいた。

彼は中風を患い、つらい闘病生活を送っていた。しかし、彼の友人は、イエスの噂を聞いて彼をイエスのもとに連れていこうとした。ところが、大勢の群衆のために、彼らはイエスに近づけなかった。しかし、彼らは諦めずに屋上に上がり、屋根をはいで病人を主の前につり降ろした(マル2:4)。彼らは、どうしても今日彼を主のもとへ連れて行きたいと願い、あとは主が癒してくださると信じたのだ。主はこの信仰をご覧になった(2節)。

主は病人に「…あなたの罪は赦された」と言われた。この言葉は人々を驚かせた。第一に、神を汚す言葉に思えたからだ。心の中でつぶやく律法学者たちの心を、主は見抜かれた。主の前に隠れているものは何もない(詩139:1-4)。

イエスこそ罪を赦す権威を持ち給うお方だ。理由は、①神から遣わされた神の子だからであり、②十字架にかかってくださったからだ。罪なき神の子イエスは、我らの身代わりに十字架にかかられた。我らが罪を悔い改め、十字架を信じれば、罪の赦しの救いが与えられる。

第二に、癒しを求めてきたのに、罪の赦しを言い渡されたからだ。イエスは、中風の男の悩みの根源が、罪の問題だと知っておられた。罪の問題から死の問題が生じる。人はみな死を恐れる(ヘブ9:27)。罪が解決していないからだ。罪と死は人間の本質的な問題だ。イエスはこれに解決を与えられた。

十字架により罪が赦されたら、神の前に立てる。永遠のいのちが与えられて、天国の希望が与えられる。この病人は、この救いを得たのだ。人はみな平安を求めて生きている。この病人が求めていたのも平安であり、それを罪赦されてイエスから得た。真の平安は罪の問題の解決から来る。

罪のない人間は誰もいない(ロマ3:10)。だからイエスが十字架にかかられた。悔い改めと信仰により、誰にでも罪の赦しが与えられる。

イエスがもたらしてくださるのは、罪の赦しの福音だ。福音とは良い知らせだ。信じれば誰でも救われる(ロマ3:24)。だから福音だ。イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です」(12節)と言われた。まず自分が病人であることを認め、悔い改めと信仰をもって医者であるイエスのもとへ行くなら、主は必ず癒し給う。魂の救いを与え給う。主はそのために世に来られ、十字架にかかられたのだ。

イエスのもとに来た、もう一人の人物は取税人マタイだ。ユダヤ人たちから憎まれ、軽蔑されていた彼をイエスがご覧になり、「わたしについて来なさい」と言われた。彼は、この権威のある言葉に信頼し、直ちに立ち上がってイエスに従った。そして、主に従っていく中で罪が示され、悔い改め、赦された。

イエスの弟子になった彼は、自分を罪の生活から救い出されたことを感謝して、すぐにイエスを食事に招待した。取税人仲間や罪人とレッテルを張られた者たちも同席した。ところが、共に喜ぶことができないパリサイ人たちが、イエスに関して弟子たちを非難した(11節)。それに対するイエスの答えが医者の譬だった(12,13節)。

パリサイ人たちは丈夫な者と自認し、自分は義(ただ)しいと主張し、医者であるイエスのもとには来ようとしなかった。彼らは、立派な犠牲は献げていたが、それは心からの愛の献げ物ではなかった。神の求め給うは、形だけの立派さではなく、ありのままの姿で求めてくる、砕けた心だ(ホセ6:6、詩51:17)。

イエスは、罪人を招くために来られた。へりくだって求めてくる人を主は迎え給う。自分は医者を必要とする病人であり、救いを必要とする罪人であると認め、信頼してイエスのもとへ行こう。主がご覧になるのは信仰だ。主に喜ばれる、柔らかい、素直な信仰をもって主に近づこう(ヘブ11:6)。