礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.01.13

ただお言葉を下さい

ルカ7:1-10

イエスが、ガリラヤ伝道の本拠地カペナウム(マタ4:13)におられたとき、百人隊長がユダヤ人の長老たちをイエスのもとに遣わした。彼の信頼するしもべが大病を患い、瀕死の状態だったのだ。部下思いの隊長は、いたたまれなくなって主のもとに使者を送ったのだった。

ローマの隊長が主に願い出ている光景は不思議だ。異邦人のローマ兵はユダヤ人から蔑視されているのが普通だったからだ。しかし彼は、ユダヤ人から尊敬されていた。ユダヤ教に理解があり、会堂まで建てたからだ。イエスはすぐに出向こうとされた。ところが百人隊長は、友を遣わして主の来訪を辞退した。ここから彼の姿勢を次のように見る。

(1)謙遜。「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格は…」(6節)とはローマの隊長の言う言葉ではない。彼はイエスを神の子と認めていた。それだけではない、自分が汚れた異邦人だと自覚していた。そうでなければこうは言えない。多くのユダヤ人らがイエスを歓迎しない中で、彼は主を迎える資格はないと言った。

(2)主の御言葉への信仰。彼は、ただ御言葉だけでしもべは癒されると確信した。その確信は、自分の軍隊生活の体験から来ていた(8節)。部下に命令を下せば、どんな事もその通り成るし、自分も上官に仕える身で、命令が下れば直ちに服従した。人間の権威がこうなら、ましてイエスの御言葉の権威ならなおさらだと思ったのだ。

主は、この単純で純粋な信仰に感動されたのだ(9節)。本来この信仰は、イスラエルの民が持っているべきもので、選民特有の信仰だった。しかし、彼らは不信仰で、神から遣わされた御子を信じなかった。

主は、「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(6:46)と言われたことがあるが、彼らは形式的な信仰に堕ちてしまっていた。彼らはイエスを神の子と認めず、御言葉に聞き従わず、ついに十字架に付けた。主の御言葉への信仰は、むしろ神の救いに縁なき汚れたものとユダヤ人らが軽蔑していた異邦人の中に見られた。だから主は感動されたのだ。

主は御言葉をもって僕を癒された(10節)。隊長が御言葉をそのまま信じたからだ。「汝の信ずるごとく汝になれ」(マタ8:13文)とある通りだ。

二つの事を教えられる。①神の祝福は信仰のはかりによること。信じたとおりになるのだ。②「汝に」と言われたように、しもべの問題ではなく、自分自身の問題だということ。百人隊長の人格の故にではない、信仰の故に、しもべは癒されたのだ。

イエスが喜ばれるのは信仰だ(ヘブ11:6)。御言葉に対する信仰だ。それは、①十字架のことば(Ⅰコリ1:18)への信仰、つまり十字架の贖いへの信仰だ(ヤコ1:21)。②御言葉は決して空しく地に落ちないとの信仰だ(イザ55:11)。③御言葉への服従だ。従おうとする時に探られる(ヘブ4:12)。それでもなお御言葉の前に出て、与えられた光に従うのだ。

サタンは我らが御言葉への信仰に立つことを嫌う。彼は創世のはじめ、御言葉への信仰を失わせる方法でエバを誘惑した(創3:1-6)。彼は我らに、もっと現実を直視して、御言葉にそれほど信頼しないようにと誘ってくる。

謙虚に、渇いて、御言葉を求めよう。「これほどの信仰をを見たことがありません」(9節)と主に言われるほどの御言葉への信仰をいただこう。