礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.09.09

万民の救いをもたらす神の恵み

テトス2:11-15

使徒パウロが若い弟子テトスに当てた手紙だ。彼はクレタの教会の牧師として派遣されていた。彼はパウロから信頼され、「同じ信仰による、真実のわが子」(1:4)と証しされていた。

クレタ教会の実情は、かなり厳しいものがあった(1:10-13)。反抗的な者、無益な話をする者が割礼ある者の中におり、教えてはいけないことを教え、家庭を破壊しているという。まことの神を知る者が人々を惑わすとは、何ということか。

 

そのような所に若いテトスが遣わされた。彼らの信仰を健全にするためだ(1:13)。パウロはテトスに、この人々に健全な教えにふさわしいことを語れ(1節)と言う。健全な教えにふさわしいこととは、十字架と復活の福音だ。多くの者は耳ざわりのよい話を求める(Ⅱテモ4:3,4)。しかし、パウロは、健全な福音を語れと言う。その健全な福音の内容が11-14節に示されている。

 

1.キリストは我らのためにご自身を捨てられた。主イエスは、ただ一度だけ十字架上にご自身を献げ、我らの受けるべき罪の罰を受け給うた(2コリ5:21)。旧約の犠牲は年々献げられたが、不完全だった(ヘブ10:1-4)。しかしイエスは、一度にして完全な贖いを成し遂げられた(ヘブ10:10,14)。

 

2.キリストの十字架は、我らを贖い出すためのものだった。傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血(1ペテ1:18,19)が流された。それは、①罪から贖う血だった。罪を認めて悔い改め、十字架を信じて、我らは赦罪と義認の救いが与えられ、人生が変えられる。一方的な神の恵みだった(ロマ3:24)。

②聖める血だった。キリストの血によって、我らは神ご自身の特選の民として聖められる(申7:6)。自分の努力でではない、血潮を信じる信仰によって与えられる恵みだ。我らはキリストの血によって汚れから聖められ、神に専属する者となる。こうして神は、我らを御子の支配下に移し給う(コロ1:13)。自動的にではない。自我を十字架につけ、キリスト内住の信仰に立つという一点を通してだ(ガラ2:19b,20a)。

③良いわざに熱心な者にする。信仰に立ったら、神の御心に従うことを最大の喜びとする者になる(詩40:8、エペ2:10)。そして御心への従順は、御霊の実の結実として表れていく(ガラ5:22,23)。

 

何と大いなる贖いか。これが我ら全て信じる者に与えられている。まず罪の赦しをいただこう。平安と感謝の生活はここから始まる。先に延ばしてはならない。主は待ち給う。そして、救われたら聖潔の恵みを求めよう。神は、我らがいつまでも自我と肉の思いに振り回される、不勝利の荒野をさまよい続けることを望まれない。

 

「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵み」が現されている。「すべて」だが、こちらの信仰と従順が必要だ。神は機械的に救い給うのではない。こちらがどれだけ渇き、真剣に求めているかを見て働き給う。すでに子羊はほふられた。全く贖い給う主を信じよう。