礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.02.04

主と心を一つにして

Ⅱ歴代誌16:1-14

イスラエルはダビデによって統一され、ソロモンの黄金時代を経て、ヤロブアムを王とする北イスラエルと、レハブアムを王とする南ユダの分裂王国になった。ユダ王国3代目の王アサは、主に従わない王が連続する中で、数少ない主の御心にかなった王だった。

1.アサの信仰

アサは、乱世にあって、主の目にかなった政治を行った(14:2)。大胆な改革を行い、父母の偶像礼拝に習わず、主に求めた(14:3-5)。さらに母を重要なポストから退け、偶像を砕いた(15:16,17)。胸の透くような潔(いさぎよ)さだ(1列王15:14)。

そんな彼にも、クシュ人(エチオピア人)の攻撃に合うという試練が訪れた。(14:9)。クシュ人ゼラフは、100万の軍隊と300の戦車をもって来襲した。しかしアサはあわてず、うろたえず、主にのみ信頼して祈った(14:11)。主を仰いだから絶望しなかった。数の上からは勝ち目はなかったが、自ら虚しくなり、主に全面的に降伏して戦った。その結果は大勝利だった。

私たちも試練に遭う。しかし、勝利の主が先立ち給う(ヨハ16:33)。私たちのために十字架で罪に勝ち、甦って死に勝たれた勝利の主に目をとめ、主に信頼するなら、私たちは必ず勝利できる。

2.アサの失敗

あれほどの信仰の人も失敗した。原因は傲慢だ。イスラエルのバシャ王の攻撃に合い(1-3節)、アラムの王と同盟を結ぼうとした。彼は今度は、祈りもせずに人により頼もうとしたのだ。

結果は勝利だった。その点は前回と変わらないが、内容は違った。主にのみより頼んで与えられた勝利ではなく、人に信頼して勝ち取った勝利だ。前回は謙遜と更なる信仰が残ったが、今回はただ傲慢と不信仰だけが残った。

予見者ハナニは彼を厳しく糾弾した(7-9節)。傲慢と不信仰は主の計画の前進を妨害する。主はアラムを渡そうとされたのに、それが出来なくなったのだ。いかに過去に恵まれても、今信仰に立たなければ祝福はない。その後の転落は速かった。ハナニを迫害し、民衆を虐待し、足の病に悩んだ。病を患ったときも、主に求めずに医者に求め、惨めな最期をとげた。彼は悔い改めもせず、かえって頑なになり、そのまま落ちていった。

9節の御言葉は真理だ。心が主と全く一つになるとはどういうことか。

①義とされた恵みを得ること。罪なき神の子が私たちの身代わりに十字架にかかられた。私たちが罪赦され、滅びから免れるためだ。ここに罪の解決がある。悔い改めと信仰によって、明確な救いを、義とされる恵みをいただきたい。

②真実をもって主に仕えること。救われたら主のために役立ちたいと願う。しかし、肉のままではそれができない。周囲の状況や自分の調子によって左右される、ムラのある歩みしかできない。自我のせいだ。古き人を意志と信仰をもって十字架につけ、キリスト内住の恵みをいただこう。そこから真実をもって喜んで主に仕える歩みが始まる。そこには不真実はかけらもない。

③いつも主を信じること。いつも、どんな事でも、成し給う主を信じて委ねるのだ。私たちが信じ信頼していけば、真実な主は必ず栄光を現し給う(ヨハ11:40、マタ8:13、マル9:23)。

主の御目はこういう魂がいないかとあまねく見渡し、そういう魂に主は測り知れぬ主の全能の力を現し給う。そのために御子を下して贖いをなし遂げ給うた。主と心が全く一つにされた者、全き心を主に向ける者にされたい。