礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.10.15

いのちの光を持つ歩み

ヨハネ8:1-12

パリサイ人、律法学者らは、姦淫の罪の現行犯として捕らえた一人の女性を、イエスを窮地に追い込むために、イエスのもとに連行した。しかし、彼らの詰問に対するイエスの反応は、まず無言(6節)、続いて「あなたがたのうちで罪のない者が…」(7節)という驚くべき言葉だった。彼らは、罪のない者は自分たちのほかにないと思っていた。律法を持つ自分たちこそ罪なき者だと思ってきた。ところが、誰も彼女に石を投げなかった。イエスの一言が、鋭い光を彼らの心に差し込んだのだ。自分には本当に罪がないか、石を投げる資格があるかと、御言葉の光に照らされたのだ。

彼らは一人ずつ去り始め、結局、誰もいなくなった。罪なき者は一人もいなかったのだ(ロマ3:10、23)。残されたのは彼女とイエスだけだった。彼女には、難しいことは分からないが、どんな立派な人も自分を罰し得なかったことが分かった。そして、自分を罪に定め得るのは、目の前にいる罪なき神の御子イエスだけだということが分かった。彼女は覚悟を決めた。

ところが、主の口から出た言葉は、「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)という全く予想外のものだった。ただ一人自分を罪に定め得る御方が、罪に定めないと言われる。無罪宣告だ。

イエスが彼女を可愛そうに思われたからか。もちろん憐れまれた。しかし、お情けだけで赦されたのではない。それが分かったのは後日、イエスが十字架にかかられたときだった。おそらく彼女も十字架の近くへ行っただろう。そのとき、自分が赦されたのは、罪なき主が自分の代わりに罰せられたからだと分かった。

罰せられるはずのない御方が、十字架の上で罰せられた。それは我らのためだ。罰せられて当然の罪人である我らが罰せられず、赦されるために、主は十字架で罰せられ給うた。しかも、努力や修行によらず、罪を認める謙虚さと、十字架わがためなりと信じる信仰があれば、ただで、無償で救われる。虫が良すぎるようだが、これが福音だ。

主は彼女に「今からは決して罪を犯してはなりません」(11節)と言われた。これは、今後は罪を犯さない生涯を歩むことができるという約束であり、罪赦された者へのさらに深い恵みだ。赦され、救われて感謝しているが、しばらくすると、喜べない、愛せない、許せない、妬ましい…など醜い自分の姿が見えてくる。傲慢で自己中心の姿に嫌気が差す。“仕方がない”では済ませられない。神は満足されない。クリスチャンとはそんな者ではない。

キリストの救いは完全だ。十字架にはもう一つの意味がある。過去の罪の精算に留まらず、現在の汚れの始末もつけられる十字架だ。信仰によって古き人をキリストと共に十字架に付けた魂に、信仰によってキリストが内住し給う(ガラ5:24,2:20)。この御方によって、もう罪を犯さない者になる。いや、主への愛のゆえに犯せないのだ。そして、愛のゆえに、御心に全く従う者になる(詩40:8)。これが福音の深さだ。

キリストは、我らをそこまで全く救い給う。もう罪を犯さない生涯を送らせ給う。主は「わたしは、世の光です…」(12節)と言われた。光なるキリストを信じ、従えば、内に命の光を持つ。主に内から歩み出していただくのだ。もはや闇に惑わされたりしない。内なる光によって常に勝利を取って行く者になれる。これが福音だ。

義認が土台だ。もし救いが曖昧なら、原因は認罪と悔い改めの不徹底だ。“今さら…”と言ってはならない。魂の生き死にに関わることだ。プライドや見栄などを捨て、謙虚に主の前に出よう。そこから始まる。またそこからしか始まらない。

決して罪を犯さない生涯、いつも主に喜んでいただける生涯、常勝不敗の生涯へ導かれたい。