礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.10.01

神のみこころは

1テサロニケ4:1-18

テサロニケ教会は、パウロの第2回伝道旅行で生み出された、大変恵まれた教会だったが、再臨観に問題があった。逸脱した者たちは、パウロの教えを誤解・曲解したのだ。そのような事情から、手紙の内容はキリストの再臨だった。主はどのように来られるか、そして我らはどう備えるべきかが述べられている。

パウロは「ますますそのように歩んでください」(1節)と勧告する。神を喜ばすように歩き続けよと言うのだ。我らはかつては自分を喜ばす歩みしかしなかった(エペ2:1-3)。罪過と罪との中に死んでいたからだ。

しかし神の憐れみにより、キリストの贖いによって、我らは罪と滅びからの救いを得た。罪なき神の子が十字架につき、捨てられるはずのない御子が、父からも捨てられ給うたのだ。我が罪のためだった。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、赦罪-義認-神との和解-新生の救いを頂いた。死んでいた我らが生きる者になったのだ。

ところが、それで神を喜ばす歩みができるようになったかと問われると、否と答えざるを得ない。依然として己れの欲を満たすための歩みをしているからだ。自分の知識欲のための学び、名誉欲・金銭欲のための労働…。果ては教会奉仕までが自己満足のためだ。すべてが主のためではなく、自分のためだ。結局自分が一番可愛いのだ。

肉の働きだ。そこから、不品行、汚れ、好色…が出て来る(ガラ5:19-21)。これでは決して神を喜ばせ得ないし、贖われ甲斐がない。自分も満足せず、なによりも神が不満に思い給う。

しかし感謝すべきかな。神は憐れみ深い。キリストの十字架を通して、我らを神を喜ばす歩みができる者になし給う。主の血は、我らの過去の罪の精算のみならず、救われた後も残る自我性の始末までつける。キリストの十字架に己をつけて信仰によって決算し(ガラ5:24)、信仰によってキリストを我が内に住まわせる(ガラ2:20)。この恵みによって、我らは神を喜ばす歩みをなす者になる。パウロはこの恵みを教えたのだ。

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(3節)。神は我らを聖めたいと願い給う。神が我らを召されたのは、我らを御前に立たせるためだ。これが救いの目的だ。ここまでされなければ、救われた目的が達成されない。我らを創造し、キリストの十字架の血で救い給うた神は、我らを完成したい、目的を果たしたいと願い給う。これは神の熱心だ。

なぜ神はかくも熱心に願われるか。終わりの時が近いからだ。13節以下に、キリストの再臨の様子が描かれている。空中携挙の恵み、栄化の恵みが贖われた者に、そして教会に備えられているのだ。

聖くされた者でなければ、主の前に立てない。大祭司ヨシュアは汚れた衣を脱がせられ、聖い礼服を着せられ、聖いターバンをかぶらせられた(ゼカ3:1-5)。神は、我らを御前に立たせたいために、かくも熱心に聖めたく願い給う。

「ですから、このことを拒む者は…」(8節)は警告だ。この恵みを拒む者は、語る者を拒むのではなく、神を拒む者だ。露骨な拒否だけでなく、不信仰による辞退、延期も拒むことだ。柔らかい魂で、渇いて求め、信仰によってキリスト内住の恵みを頂こう。そして神を喜ばす歩みをする者、主のために生きる者にしていただこう(1コリ5:14b,15)。

それは具体的には、①愛のうちに歩む歩み(エペ5:2)、②光の子らしく歩む歩み(エペ5:8)、③賢い者のように歩む歩み(エペ5:15,16)だ。内に主が在すなら、こういう歩みをすることがきる。再臨は近い。希望の朝は近い。だから神を喜ばす歩みをする者とされよう。