礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.07.23

この栄えある教会

エペソ1:15-23

15節から、我らが神の聖旨を悟るためのパウロの祈りがある。祈りの対象は栄光の父、祈りの内容は、知恵と啓示の霊によって我らが神のみ旨を知る者になれるようにというものだ。

心の目が開かれて、神の御旨が分かる(18節)。認罪も十字架がわがためと分かるのも、目が開かれてのことだ。しかし、神の御心が分かるのはさらに深いところでの開眼だ。

祈りの結果は何か。神の御旨を悟ることができたら、我らはどうなるか。見るべきもの、知るべきものがある。一つ目に望みだ(18節)。神なく望みなき我が、永遠の経綸の中で選ばれ、御子の血で贖われ、召された。滅びに向かっていた者が、呼び出され、王のもとに召された。生きる望みなき者が、王の子とされ、望みにあふれた者とされたのだ。

二つ目に神の国だ(18節)。単に天国にいけるだけではない。神ご自身をいただくことだ(ルカ12:32、使徒20:32)。まず神が我らの相続地だ(詩16:5,6)。何が与えられなくても、何を持たなくても、神ご自身が我らの分だ。レビ族に神ご自身が相続地であったように(民18:20)。そして我らが神の相続地だ(イザ43:1)。我らに約束されて神の国がいかに栄光に富んだものか。

三つ目に神の大能だ(19節)。復活-昇天-御即位というキリストに行われた神の力(20,21節)が、信じる我らの内に働き、我らが「天の処に座せしめ給えり」(2:6)という魂になる。ただし、主の復活-昇天-御即位の前に、十字架の死と葬りがあったように、我らの内にも死と葬りがある(ガラ2:19、20)。主と共に死んで葬られた魂に、キリストが生き、復活-昇天-御即位の御業をなし給う。

望みと神の国と神の大能、これが我らの魂の目が開かれて見るべきものだ。我らはこれほどの深い、高い贖いを得ているのだ。見るべきものを見て、贖いの深さを賛美できる者にされたい。

今日の本論は22,23節だ。詩篇8:4-6に人間の尊厳がうたわれ、ヘブル2:6-8に引用されているが、その後に見ていないものと見ているものが示されている(ヘブ2:8b-9)。我らは、今でもなお万物が我らに従わせられている事実を見ていない。しかし、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受け給うたイエスを見ている。何たる対照か!

我らの足下には、未だ万物は服していない。約束されているがまだ見ていない。むしろ、我らが万物に支配されているかのようだ。しかし、イエスはすでに栄光と誉れの冠を受け給うた。万物は彼の足下に服している。我らはこのイエスを見る。弱い自分から目を離し、この主を仰ぐなら、栄光と誉れの御姿が輝いている。現実は万物は未だ我らに服していないが、イエスを見ることにより、信仰によって万物を服させ給うたイエスと同じ所に立ち得る。現実は地上の歩みだが、魂は天の処だ。これがクリスチャンだ。

そして、この深い救いにあずかった者の群れが教会だ。万物を足下に踏み従え給うイエスが教会に与えられている。しかも教会のかしらとして。全てに勝利し、全てを服従させ給う主が教会のかしらだ。

①教会は神のものだ。神の徳が満ち満ちている。神がご自身の血をもって買い取られた神の教会だ(使徒20:28)。②教会とは世に勝っているものだ。勝利の主がかしらだからだ。教会は世に在るが、世は教会に入ってこない。③教会は潰されない。サタンは主の教会に打ち勝てない(マタ16:18)。

この栄えある教会に連ならされていることを感謝しよう。教会のかしらなるキリストを仰ごう。万物を従え給う主に信頼しよう。かしらなるキリストによって結び合わされ、キリストのからだとされている我らは、信仰の一致をもって前進しよう。