礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.05.21

勝利の主を仰いで

ヨハネ16:29-33

14~16章はイエスの惜別説教だ。主は、父のみもとに帰るべき時が来たことを知り、弟子たちを極みまで愛された(13:1)。主は弟子たちに心を騒がせるなと言われ、場所を用意してまた来ると約束された(14:1,2)。これは天国の希望、また再臨の約束とも取れるが、実は聖霊の約束だ。惜別説教は聖霊の約束のメッセージで、主はこれだけは言い残しておきたいと思われ、聖霊の約束を語られたのだ。

弟子たちは心が騒いでいた。騒がせるなと言われても、不安だ。彼らを慰めるのは、聖霊の確実な約束だった。

主は決して気休めを言われない。それが証拠に、弟子たちが主を見捨てるという衝撃的な予告をされた(32節)。主の予告のとおり、彼らは、主が逮捕されたとき散り散りに逃げ、主を一人置き去りにして自分の家に帰った。彼らは、主を守るためにいのちを賭けて戦わなかった。

しかし主の目的は、彼らを不安にさせること、非難することではなく、彼らに平安を与えることだった(ヨハ14:27)。主は「なんじら世にありては患難(なやみ)あり、然(さ)れど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」(31節文語)と言われた。主は、患難に遭わない、悩みは消滅するとは言われない。むしろ患難があると明言される。しかし、負けない、窮しない、行き詰まらない。なぜなら、主にある平安があり、主が勇気を与え給うからだ。

弟子たちは、確かに患難多き道をたどる。初代教会がどれほどの苦難の歩みをしたかは、歴史を見ればわかる。多くの聖徒が鞭打たれ、焼かれ、切られ、猛獣に食われた(ヘブ11:35-38)。しかしみな耐え、喜んで死んでいった。殉教者たちはみな、平安のうちに輝いて死にゆくことができた。彼らこそ勝利者だった。世に勝たれた主を得ていたからだ。

「我すでに世に勝てり」と言われるとおり、イエスが先に勝ち給うた。①誘惑に勝ち給うた。ゲッセマネの祈りにおいて、杯を避けたいとの誘惑に、御旨への徹底的従順で勝利された(マル14:36)。②罪に勝ち給うた。主は、冒涜罪(ぼうとくざい)と反逆罪で訴えられて十字架につけられたが、実はご自分から進んで十字架につかれたのだ(ヨハ10:18)。我ら滅びゆく罪人が救われるためには、罪なき神の子の血が十字架で流されなければならなかった(ヘブ9:22)。③死に勝ち給うた。主は三日目に眠れる者の初穂として復活された(1コリ15:20)。死の刺(とげ)は抜かれた(1コリ15:55)。もはや死は最後の敵ではなく、御国への入り口だ。

この主が弟子たちの先頭に立ち給う。だから彼らは、ペンテコステ以後、平安をもって勝利しつつ進んで行った。

誘惑に勝ち、十字架で罪に勝ち、よみがえって死に勝ち給うた主が、我らの先頭に立ち給う。この主が我らの内に生き給う。死にてよみがえりし主は、我らの内にも死とよみがえりの御業をなし給う。我らを、己れに死に主に生きていただく魂とし、そして徹底的に御心に従う者となし給う。

我らはこの世ではなやみがある。困難、誘惑、痛み、憂い、病、そして死がある。しかし負けない。勝利を取られた主によって勝利できる。また、個人的レベルだけではない、教会も、神が御子の血で贖い取られた神の教会として、この世で勝利することができる(使徒20:28)。勝利の主を仰いで進もう。信仰をもって前進しよう。