礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.11.20

幸いなことよ

詩篇32:1-11

幸福の追求は人間の基本的な権利だ。しかし、幸福観は人によって異なる。聖書は、そむきを赦された人、罪をおおわれた人、つまり罪を赦された人が幸いだと言う。

この詩篇はダビデの詩だ。この詩の背景には深い事情がある(Ⅱサム11章)。彼はイスラエルの王だったが、ウリヤの妻を横取りし、さらにウリヤを謀殺した。それでも彼には罪の自覚がなく、預言者ナタンの指摘によって、やっと自覚が生じた。彼は心から悔い改め、ただちに赦された。その時の詩だ。

 

1.神は我らの罪を赦してくださる

ダビデ一人のことではない。罪を犯したのは我らだ。いつ見ても自分は罪人だ。罪を犯した時だけではなく、いつもの自分の姿だ(詩51:3)。我らは一人残らず生まれながらの罪人だ(詩51:5、ロマ3:10)。我らは、神の律法に照らされれば、有罪は明白だ。神を敬わずに侮ってきた。偶像礼拝も平気で行ってきた。隣り人を傷つけてきた。すべて神に対する罪だ(詩51:4)。罪から来る報酬は死、滅びだ(ロマ6:23)。義なる神は罪を必ず裁かれる。神は侮られる御方ではない。

しかし、神は義であると同時に愛なるお方だ。神は我らを滅ぼしたくないと思われ、救いの道を設けられた。ダビデが赦されたのは、すぐに悔い改めて神の憐れみにすがったからだ(詩51:17)。神は、一方的な愛をもって我らの罪を赦してくださる。しかし、お情けでではなく、正当的な手段で赦してくださる。それがキリストの十字架の贖いだ。

神の御子キリストは、我らと同じ人となってこの世に来られ、罪のないお方だったのに十字架にかかられた(Ⅰペテ2:22,23)。我らのための身代わりだった。

罪を悔い改めて、キリストの十字架わがためなりと信じるなら、我らに罪の赦しが与えられる。神は、キリストの十字架のゆえに我らの罪を赦してくださる。我らの努力や善行や功績のゆえではなく、ただ御子の流された血のゆえに、神は我らの罪をおおってくださる(ミカ7:19、イザ44:22)。何という恵みだろうか。

 

2.神は我らの魂を全く聖めてくださる

罪が赦された者は、心から主に従っていきたいと願う。しかし、従えない弱い自分という現実にぶつかる。弱さのゆえに従うことができない。いや、もっと鋭く見ていくと、本当は主に従いたくないという自分がいることに気がつく。肉の姿だ。

御子の血潮で我らを贖ってくださった神は、そんな我らのままで満足はされない。神のみこころは、我らが聖くなることだ(Ⅰテサ4:3)。自分で自分を聖くすることはできない。だからキリストが十字架にかかられた。キリストは十字架で「完了した」と言われた。我らの救いを完成しているのだ。あとは自分がどうするかだ。

我らが、神に喜ばれない汚れた自分の姿を認め、自分自身を信仰によって十字架につけ、主を仰ぐなら、主がわが内に臨まれる(ガラ2:20)。こうして我らは、全く新しく造り変えられた魂となり、喜んで神のみこころに従い、主のために生きていく者となる。本当に幸いな人とは、この全き救いをいただいた者だ。

 

この世で幸福と言われるものは、自分で勝ち取っていくものだが、真の幸福は神から与えられる恵みだ。ぜひこの幸福を求めて、御前に出て行きたい。真の幸福をキリストのもとでいただいて、「幸いなことよ」と神から言われる人にしていただこう。