礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.05.15

五旬節の日になって

使徒2:1-13

2000年前の五旬節(ペンテコステ)の日に、エルサレムの二階座敷で祈っていた120名ほどの人々の上に聖霊が下られた。昇天される前にイエスが与えられた約束(1:4,8)の成就だった。彼らは、徹底的に悔い改め、虚しくなり、渇き、約束を信じて祈り待ち望んだ。

ユダヤ人の三大祭の一つであるペンテコステの祭で、人々は麦粉で作ったパンを献げた(レビ23:15-17)。これは象徴だ。本章で初めて教会が神に献げられた。本章から神は、教会をもって悪魔の陣営を倒す目的を持ち給う。教会はペンテコステ以来、悪魔と戦い、勝利するものとして神に用いられる。

ペンテコステは神の定め給うた時だった。神の時が満ちて、恵みが注がれた。準備の時が満ちたなら、神はいつでも聖霊を注ぎ給う。“自己の無能、神の大能”に徹して、全く虚しくなった時が神の満期だ。

それは午前9時の出来事だった。一同は座して祈っていた。それは①一致の祈り、②熟心な祈り、③集中的な祈り、④信仰の祈りだった。ペンテコステの恵みは、そのような祈りへの神の応答であり、神が祈りに答え給う証拠だ。また、み言葉が真実であることの証拠だ。信じて従えば必ずみ言葉のごとくなるのだ。

一同は聖霊に満たされた。天に昇り栄光を受けられた主は、戦いの中にある弟子たちを忘れないで、栄光を与え給う。そして、戦いの中でも御国の味わいを与え給う。御霊は我らを天の処に座する者にし、天上での戦いに勝利する者にし給う。聖霊に満たされ、主に従い、証しし、戦うクリスチャンになりたい。

聖霊を受けた人々は、他国の言葉で話し出した。もう黙っておれず、神の恵みを証しし出したのだ。これは神の方法だった。まわりの人々は自国語で神の恵みを聞いた。神はすべての民を憐れみ、恵もうとし給う。

人々は「神の大きなみわざ」(11節)に驚いた。主の十字架-よみがえり-ペンテコステこそ、神の大きなみ業だ。我らに罪の赦しを与え、永遠のいのちにあずからせ、内側の汚れを焼き尽くす聖霊の火のみ業によって、我らは神のものになる。我らも神の大きなみ業を確実にいただいて、主に感謝し、御名を賛美し得る者になりたい。

昔、シナイ山では石の板に律法が記されたが、ペンテコステで魂の内に御心が記され(2コリント3:3)、我らは新しい契約の民になる(エレミヤ31:31-34)。これがペンテコステの恵みだ。聖霊が下られたら、肉碑に御旨が刻み込まれ、律法を行い得る者になるのだ(詩篇40:8)。

聖霊は今も我らの内に注がれる。自己中心の自分の醜さが分かって、砕かれて十字架のもとに行った魂に、内住のキリストとして聖霊が臨まれるのだ。謙遜と渇きと信仰をもって御前に出て行こう。

そして、そこから遣わされて、地の果てまでキリストの証人となる(使徒の働き1:8)。神は我らをそういうクリスチャンにしたいと願い給う。渇いて求めよう。