礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.04.19

我らにイエスあり

ヘブル4:14-16

本書のテーマは“大祭司イエス・キリスト”だ。イエスは、モーセにもアロンにも勝る大祭司、最高の大祭司だ。大祭司は年に一度、至聖所に入って贖いをする、祭司職中の最高権威だった。なぜイエスが最高の大祭司か。

 

1.もろもろの天を通られたから

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスが…」(14節)。イエスは神であられたことを表す。イエスは永遠の初めから神であられたが(ヨハネ1:1)、一時的に肉体をとってこの世に来られた。イエスは十字架で死なれ、復活され、昇天され、再び神の右の座につかれた。十字架のどん底から天上の玉座につかれたのだ。

その主が、我らのために神の前に出ておられる(9:24)。十字架で贖いを全うされた主が、我らが救いを受け入れるように、贖われた者として歩めるように祈っていてくださる。復活して一切の権威を授けられた主が、我らのために執り成してくださるのだ。

 

2.我らの弱さに同情できるから

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません…」(15節)。イエスは人となられた。だからこそ、我らの弱さを知られた。主は、貧しさ、飢え、疲労、渇き、眠気、痛み、罵り、死…という我らの弱さを経験された。

主の最大の苦しみは十字架だった。主は十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)と叫ばれた。信頼しておられた父からの断絶を味わわれたのだ。捨てられるはずのない神の子が、父からも捨てられてくださったのだ。それは、捨てられるべき我らが捨てられず、赦され義とされ、神の子どもとされるためだ。

主は、罪は犯されなかったが、父からの断絶を経験された。神からの断絶ほどのどん底はない。どん底を味わわれた主は、我らの弱さに同情してくださる。我らは、悲しみ、痛み、悩み、苦しみの中に置かれやすい。そのような我らを、主は知り、憐れんでくださる。

 

我らには、このような大祭司が与えられている。我らにイエスあり。We have Jesus.この御方で十分だ。我らを真に慰めたり、励ましたりするのは、富や地位や名誉ではない。イエスだけだ。我らにイエスあり!

主のもとにこそ、「おりにかなった助け」(16節)が、癒し、慰め、励ましがある。主のもとこそ避け所、隠れ家だ。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)とある通りだ。主のもとに行って失望はしない。この主を仰ぎ、はばからず恵みの御座へ出て行こう。