礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2014.10.19

天の開かれた者

マタイ3:13-4:11

イエスは、公生涯に立たれる前に、通らねばならない所が2つあった。ヨルダン川とユダの荒野だ。

まずイエスは、ヨルダン川に下られた。イエスは、悔い改めるべき罪など一つもない、罪なき神の御子だったが、ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川に下られた。それは、我ら罪人の低さにまで下られたことを表す。ヨハネは、イエスの受洗が神のみ心に適っていることを悟り、イエスにバプテスマを授けた。

イエスが水から上がられたとき、天が開け、聖霊が下られ、天からみ声があった。「これは、わたしの愛する子…」(17節)との天からのみ声は印象深い。神は、これからイエスを公生涯に遣わされるに当たって、信任のみ声をかけられたのだ。

神は、明確に救われた魂にこのみ声をおかけになる。謙虚に自らの罪を認め、悔い改め、キリストの十字架を信じて、はっきりと罪の赦しをいただいた魂でありたい。また神は、心から主を愛し、主に従っていこうとする謙遜で忠実な魂にこのみ声をおかけになる。神のみ心に従うよりも自分の都合を優先させたい自我が、十字架で始末され、キリスト内住の恵みをいただいて、私を愛してくださった主を何にも勝って愛し、どこまでも喜んで主に従っていこうとする魂を、神は信任される。我らも神から「これは、わたしの愛する子…」と言っていただく魂となりたい。

困難は来る。戦いはある。しかし、神がご自身の血をもって買い取られ(使徒20:28)、「わたしはこれを喜ぶ」と信任された教会は、そして我ら一人ひとりは、必ず神の愛によって守られ、勝利する。

次にイエスはユダの荒野に行かれた。サタンの誘惑を受けられるためだ。主はまずサタンから石をパンに変えよという誘惑をうけられた。「あなたが神の子なら…」は“あなたは神の子なのだから…”という意味だ。彼はイエスが神の子だと承知の上で、“神の子なのだから、自分の食べ物ぐらい自分ですればいいでは…”と言ってきたのだ。つまり神への絶対信頼を半減させようとしてきたのだ。しかし主は、「人はパンだけで生きるのではなく…」と申命記(8:3)の御言葉で対抗された。主はいつも御言葉に従っておられた。人が真の意味で生きる原動力を知っておられたのだ。

さらにサタンは、神殿から飛び降りよと誘惑してきた。サタンが使った御言葉は、詩篇91篇11,12節だ。彼も御言葉を使う。だから我らが御言葉に精通していなければ、サタンに太刀打ちできない。彼は“十字架にかからなくても王になれる”と、主の功名心をくすぐってきた。サタンのもくろみは十字架を否定、または不明瞭にすることだ。しかし、主はやはり申命記(6:16)の御言葉で反撃された。申命記は神の御心である律法の中心だ。確かに御使いは主を支えるだろうが、試みようというのは動機が不純だ。主はいつも動機を見給う。

それでもサタンはあきらめない。自分を拝めば全世界の富を与えると誘惑してきた。ここに至っては神への反逆でしかない。主は即座に「引き下がれ、サタン」と一喝された。サタンだと分かったら少しでも耳を貸してはならない。主は「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕え奉るべし」(10文語)と、やはり申命記(6:13)の御言葉で対抗された。神への全面的・絶対的信頼だ。

神への信頼による主の勝利だった。主に依り頼んでいけば、私たちも必ず勝利できる。主は私たちの罪のために十字架にかかられた。そこまで愛してくださった主を、私たちも心から信じ、主にだけ仕える、天の開かれた者とされたい。