礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2014.02.09

神を喜ぶ生涯

ローマ4:25-5:11

本書には福音の恵みがわかりやすく説かれている。我らは神のかたちに創造されたのに、み言葉に背いて神から断絶された。罪に定められた我らは、例外なく滅びゆく者になった。しかし愛なる神は、我らに救いの御手を伸べ、御子を世に遣わされた(4:25a,5:8)。罪なき神の子が、我らの罪のために十字架にかかられたのだ。キリストの死は、我らのための身代わりの死だった。独り子を惜しみなく与え給うほどの神の愛によって、我らは罪と滅びから救われた(4:7,8)。

罪を悔い改め、十字架を信じて、我らに赦罪が与えられる。そればかりか、一度も罪を犯さなかった者とみなされる。それが義認だ。キリストの復活は我らの義認の保証だ(4:25b)。

信仰によって義と認められた例がアブラハムだ(4:17-19)。彼は、高齢に達していても、神は約束通り跡継ぎを与え給うと信じ、その信仰を神は喜び、彼の義と認め給うた。我らにもこの約束が与えられている(4:23,24)。神の国を受け継ぐ約束、天の資産を相続する約束が、信仰によって義とされた我らにも備えられている。まず罪を悔い改め十字架を信じて、罪赦され義とされた者になりたい。

アダム以来神に敵対していた我らが、神との和解を得るとは、なんと幸いなことか(5:1)。義認は救いの土台であり、ここからスタートする。

5章3~11節には、クリスチャンの勝利に満ちた歩みが記されている。喜びに満たされた生涯だ。患難を喜ぶと言う。なぜそう言えるのか。①患難は忍耐を生み出すからだ。忍耐は苦しみの中からのみ生まれる。②忍耐は練られた品性を生み出すからだ。忍耐する中で心が鍛えられる。③練られた品性は希望を生み出すからだ。鍛えられた魂には失望に終わらない希望が与えられる。何と輝かしい歩みか。

しかし、ここで自分の現実の歩みに目を向けるなら、自分が何とかけ離れているかを思わざるを得ない。喜びや平安のない歩み、不平・不満に満ちた生活、失望・落胆の連続の日々ではないか。何と理想とほど遠い歩みをしていることか。

けれども、ここに記されているのは単なる理想ではなく、標準であり約束だ。「いま我らの立っているこの恵み」(2節)がポイントだ。救われ、神と和らがしめられて喜んでいる魂は、やがて自分の醜さが見えてくる。救われたのにまだ妬み深く、傲慢な己の姿に気がつく。み言葉の光に照らされていくと、自己の真相がわかってくるのだ。

しかし、キリストの贖いは完全だ。主は、過去の罪の精算のみならず、現在の自我をも始末し給うた。我らがごまかさず、繕わず、言い訳せず、自己の真相を直視して絶望し、すでに御業が成し遂げられている十字架を仰いで決算すれば(ガラ2:20a)、キリスト内住の信仰をいただくことができる(ガラ2:20b)。

ここを通った魂が、喜びと希望に満ちた生涯を始められる。神が我らに希望を与え給うのは、我らの内に住まわせ給う御子の霊を愛するゆえだ。この御霊によって、我らは子とされ、「アバ、父」と呼ぶことが出来る。そこまでして子とされた我らを、神はこよなく愛し給う。

これがクリスチャンの歩みだ。神がこういう力強い勝利の生涯を送らせ給う。恵みもさることながら、恵みを与え給う神ご自身を喜ぶ者となる(11節)。恵みよりも恵み主だ。何はなくても神ご自身を喜び、神ご自身で満足する、これがクリスチャンだ。

成し給う主を信じよう。義とされたことがどれほどの恵みかを思い、それを土台にどれほどの恵みが備えられているかを知ろう。贖いの恵みを感謝しよう。